
「学びと、本棚」は、デザイナーや映画監督、アーティスト、漫画家など創作の最前線で活躍するみなさんに、自身の人生のなかで“学び”につながった1冊を紹介してもらうコーナーです。お守りのように大切にしたいもの、教訓にしたいものなど、その人それぞれのエピソードをうかがいます。
今回ご登場いただくのは、アーティストの和泉侃さんです。香りを軸に、プロダクトや空間、アート表現まで横断しながら活動している和泉さん。2026年8月9日まで21_21 DESIGN SIGHTで開催中の企画展「スープはいのち」にも作品を出展している和泉さんが選んだ1冊とは?
■「学び」につながった1冊
『匂いの人類学:鼻は知っている』(エイヴリー ギルバート 著・勅使河原まゆみ 翻訳/武田ランダムハウスジャパン)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784270005132
人間にとって「嗅覚」とはどのような感覚だったのかを、人類学的な視点から紐解いていく本です。
動物にとって嗅覚は、生存や危険察知に直結する重要な感覚でした。しかし人間は、言語や視覚を発達させる中で、少しずつ嗅覚への依存度を下げていきました。
そうした身体感覚の変化や、文化・文明との関係性について、多角的に考察されています。

私自身、香りを仕事にしていますが、この本を読んだことで、「香りは単なる嗜好品ではなく、人間の根源的な感覚に関わるものだ」と強く再認識させられました。嗅覚は、言葉よりも先に身体へ届き、記憶や感情、想像力と深く結びついています。
そのため現在の制作でも、「どうしたら人間がもう一度、動物的な嗅覚を取り戻せるか」ということを、大きなテーマのひとつにしています。
また、人間が嗅覚を使わなくなった背景を知ることで、逆に“いま香りを扱う意味”について考え直すきっかけにもなりました。香りや身体感覚に興味のある方だけでなく、「感覚」そのものに関心がある人にもおすすめしたい一冊です。
■最近手がけたお仕事
香りを設計するスタジオ「Olfactive Studio Ne」では、香水や化粧品、ホテルや店舗のデザインを行う一方で、嗅覚を通して、人間の感覚や記憶にどのように触れられるかを探るような制作も続けています。
最近では、ニューバランス「Grey Days」の企画展「GREY ART MUSEUM 2026」に参加しました。
“Grey”という、輪郭を持たない曖昧な概念を、香りや味覚、空間体験へ翻訳する試みです。展示作品から着想を得たドリンク制作も行い、視覚だけではなく、身体全体で“Grey”を知覚する体験を目指しました。
グレーという色は、白と黒の間にある単なる中間色ではなく、光や素材、環境によって絶えず揺らぎ続ける色でもあります。今回の制作では、その不確かさや余白の感覚を、香りや味覚のレイヤーによって立ち上げようと考えました。
香りは目に見えず、明確な輪郭を持たないからこそ、人の心象風景に直接作用することがあります。そうした嗅覚の特性を通じ、“Grey”という抽象的な概念に触れ直すような体験を構成しています。

また現在、21_21 DESIGN SIGHTの企画展では、香料を練り固めるお香「印香(いんこう)」の技法を応用し、香りをコンソメキューブのようなかたちに封じ込めました。すべての香りには昆布だしを練り込み、「記憶を飲む」ような嗅覚体験を試みています。本作がたどるのは、生命が誕生する原始の海から、土器、羊水、スープ、そして灰へと至る、いのちの循環です。

今回の作品では、香りを「時間を閉じ込める装置」として扱い、明確な形を持たないからこそ呼び起こされる、遠い記憶や根源的な身体感覚に静かにアプローチしています。
■最近、または今後学んでみたいこと
・植物ごとの蒸留特性や、土地による香りの違い
・嗅覚と脳、身体感覚の関係性
・日本古来の香文化や、“気配”の美意識
・植物の香気成分と蒸留技術
■プロフィール

匂いや嗅覚を軸に、人間の記憶と体験、身体と空間の関係を再構築。インスタレーションやパフォーマンス、オブジェ、空間演出をはじめ、形態を限定しない自由なアートワークを展開する。
素材として用いるのは、調香に用いられる天然香料や合成香料のみならず、自然植物から土や水、食物など、世に存在するありとあらゆる匂いの情報。それらを横断的に調査・研究し、独自の感覚で組み合わせることで、人の感覚を蘇生し、想像力を誘発する作品へと昇華していく。