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【Skholeの哲学広場】第1回―なぜ人は学びたいと思うのか?―後編

「学びたいと思う」ことと、それを「行動に移す」こと

みんな意識が高くて、じゃあ実際にどれくらい行動しているんだろうというのが気になって。私はしないんですよね。しないというか、振り返ると、結局それ(勉強しようとして、できなかったこと)はそんなに好きじゃなかったんだなって思う。

でもサッカーは、詳しくなりたいと思ったわけではなくて、好きだからどんどん試合を見て、戦術を覚えたり、クラブを覚えたりしていった。(それ以外の行動に移せなかったことは)結局そんなに好きじゃなくて、学びたいと思わなかったんだなと、ふと思いました。

:私はそれでいうと、本当になにもできないんです。口先だけなんです。日記とかもそうですけど、続かないことの方が多いんですよ。でもそれを積み重ねていくと、たまにすごくできるようになる時がある。なので、学びたいという、その時の気持ちだけで動いてもいいのかなと思います。その気持ちがいつか好きにつながるのかなと感じました。

だから全然意識は高くないし、買った本も読まなかったり、本で読んだことをアウトプットしようとしても結局できなかったり。そんなことを積み重ねて、あるとき急に自分にハマるものがある。ただ、学びって全部つながっていて、最後にたどり着くものなのかなと、聞いていて思いました。

:(思い立ってから行動に移すまでに)時差があると意欲がなくなって、やらなくなることは私もすごくあります。それと、学んでいたら新しい自分なれるような、そういう快感があるんですよね。何かを学んで、新しい自分になったような、その没入感みたいなものをもう一度体験したくて、ハマれるものを探している節はあります。だから、時差がないように意識をしていて、無理やり行動に移すときもあります。

:そんなポジティブな話ではないですが、自分は去年、中型のバイクの免許を取ろうと思って、資料を取り寄せて、お金をもって教習所を見に行ったんですけど、予約がいっぱいで講習を受けられるのは3カ月後ですと言われた。それでやる気がなくなってしまって。時差があるというのはまさにそれ。「免許を取ったら楽しそう」という気持ちに、3カ月待って、真夏の講習を受ける元気まではなかった。

:「学びたいと思うけど行動に移せない」ことと、「本気で好きになって自然と学べたこと」と、2パターンくらいありそうですが、その違いは何だと思いますか?

:私は、やっぱり「学びたい」「やるぞ」というものは、「学習」のようになってしまって、結局学べていない。サッカーはただ見て楽しみたいからというのもあって、ルールを覚えていくし、戦術も見ていれば覚えていって、結果的に学んでいたという感じ。その違いがあります。

さんやMさんが仰るように、「次からは恥ずかしい思いをしない」ようにしたいとき、私だったら学びで解決しようとしない気がします。そのまま逃げ切ります。そういう自分でなくてもいいというか、そういう場面に出くわさないようにしようとする。

というのは、やっぱり興味が少ししかないことを学ぶのは私の中でハードルが高くて。さんのように、知らず知らずのうちに学んでいた、もしくはすごく楽しそうだから学ぶ、ということしか学べないですね。

学ぶには、「わくわくするか」が大事?

:一言で「学び」といっても、好きだから学びになっていることと、学習しなければという意識で学ぶこととの間に何か違いがありそうですね。

:それでいうと、最初の話に戻りますが、学びってなんだろうって。小さい子が言葉を覚えるのは、学びというか、ある環境でそうせざるを得ないからしたことで。人間の本能的な、身につけないと死んでしまうみたいな「学び」と、学問的なもの、興味からくるもの、枝葉がいろいろあって、どれを学びというんだろうとなったときに、自分は「嫌でもやらなきゃいけないもの」が学びであるという感覚です。

:私は「学習」というと、社会に出てその知識をすごく使うわけではないけど、単位が欲しくて頑張る授業のイメージがあります。「学び」は、学校でいうと道徳の授業みたいな、今後の人生に何かしら活かせそうなものだと思います。

「自分の人生経験としてプラスになるもの」が「学び」と定義するといいのかなと。でも数学がプラスにならないと言っているわけではなくて、私が学び直しでやっている数学は「学び」になると思うんです。自分がやりたくてやっていて、今後の人生に役に立つかもしれないと思っているので……。

M:仮に「学習」と「学び」を分けて考えるとして、その違いは何だろうと考えたときに、わくわくするかしないかだなという気がしています。あえて分けるとしたらですが、わくわくしないのは、それが未来の自分につながるとか、過去の自分を救うとか、恥ずかしさを軽減できるという想像ができていない状態なのかなと思って。

自分の経験として、過去に学ぶのがすごく嫌だったのに、いまは楽しくなったことがあります。それは「歴史」なんですね。歴史の授業はすごく苦痛で、ずっと寝てたんです。でもいま歴史を知ると、現代を生き抜くための教訓が含まれていたり、自分と同い年くらいの人が当時を生きたドラマがあったりする。それをうまく自分ごとにできたら、楽しい、わくわくする学びになるのかなという気がしています。

:私もそう思います。それで、「学習」と「学び」が別物かという話なんですが、別物だけどつながると思うんですね。自分の子どもの学校での勉強についても、どうしても何点とらないとダメとか、高校行けないよとか、「やらなきゃいけないもの」になってしまうとしんどい。だから、それをいかに「やりたいこと」にすり替えるかを日々考えているんです。

なので、子どもへの声掛けも「これをやれば内申点がこれだけもらえて、こういう学校に行ける、こんなことができるようになる、いいじゃん、楽しいよ!」と言って、自分ごとにして、わくわくする方に持っていくように意識してるんです。「学習」や「学び」は別物ではあるけども、すり替えられるというか、近しいものだと思いました。

M:すごく自分も共感できるなと思って。だから、わくわくする方法を教えてもらいたいなと思いました。学校で学ぶときに、それを身につけることでどう人生が変わるとか、自分はこれを学んで楽しかったということを最初に教えてもらえたら、もっと学びが身につくのかなって。学びの達人がいるとしたら、なんでも自分ごとに置き換えてわくわくできる人なのかなと思いました。

今回、テーマ「なぜ人は学びたいと思うのか?」についてJDN社員のみなさんに哲学対話をおこなってもらいました。

哲学対話には「正解」や「答え」のようなものはありません。ただ、参加者のみなさんの飾らない言葉や素直な意見から、読者のみなさんのなかになにか新しい考えやヒントが生まれたり、これまで見逃していた自身の気持ちに気付いてもらえたりするきっかけになれば幸いです。